私はその日の事を忘れる事はできません。９７年の１２月、暮もおしせまった寒い日の事でした。 　私は戸塚で日本そば屋を経営しているのですが、その日２１時半を回りお客さんもいなくなったので店を閉めようとした時でした。４０歳前後の夫婦と３人の女の子を連れた５人家族が店に入ってきたのです。 　「すいません、かけそばをお願いします。」 　「はい、５人前ですね」 　「いえ、一杯だけなんです．．．」 　私が唖然としているのを尻目に、５人家族は席に陣取り、 　「すまないな、パパの会社が倒産しなければ、．．．　　０．５か月のボーナスは住宅ローンに消えてな．．．　　久美子、俺とお前はおなかすいていないんだよな。」 　「ええそうよ、あゆみ達３人で食べてね。」 　私は多少気が動転したものの、注文を断わる訳にもいかず、たった一杯のかけそばを作りはじめました。 　「久美子、年末までに再建計画が出なかった時は覚悟してくれ。正月は岡山に帰省しないで、履歴書作成だ。」 　「あなた、いざとなったら私も働くわ。独身の時働いていたノガルオで在宅プログラマーの募集をやっていたので応募してみるわ。」 　「パパ、おなかすいた。鍋焼きうどんは？」 　「なつみ、すまないな、かけそばなんだ。パパはもうバブル紳士じゃないんだよ。」 　私は出来あがった一杯のかけそばを、溢れる涙をこらえながらお客さんの席へ運びました。 「へい、おまちどうさま。」 　三姉妹は、ひとつのどんぶりに同時に３方向から箸を出し、食べはじめたのです。両親がうるんだ瞳で見つめているその中で．．． 　私はその父親の背広の胸に着けていた青いバッチに見覚えがありました。そうです戸塚にも支店のあるＳ証券のものです。私は全ての事情を理解しました。確かウォーターフロントに大きな体育館を建てたら、大蔵官僚にそんな金があるなら俺たちをノーパンしゃぶしゃぶに連れていけと迫られ、簿外で債務を作ったあの会社です。かわいそうに、食べ盛りの子供さん達なのに．．． 　そうこう気を巡らしていると、一杯のかけそばはあっという間に空となってしまいました。 　「おやじさん、お勘定！」 　「お客さん、今日はサービスですよ。私知っているんですよ。大蔵省に潰されたＳ証券さんでしょう。かわいそうに群馬証券局長にいいように遊ばれたんですって？　頑張って下さいよ。あなた達に責任はないんだから。」 　私がそう言うとすまなそうな顔をしながらも、５人家族は凍えそうな店外へ出て行きました。 　その後、年が明けても、この５人家族と再会はしていません。Ｓ証券は弁護士さんたちが、自己満足ゲームをしているとかで、破産も目前と聞きます。５人家族の行方が気掛かりです．．．．．．完。 　　　　　　　 　　　　　　　　made by ozawa 注: この著作はフィクションであり、実在の会社・人物とは一切関係がありません。また、作者の許可なく転載を禁じます。